昭和41年10月27日 朝の御理解



 信心しておかげを受けたいとこう願う。そこにお互い信心さして頂くんですけれども。おかげが頂きたいけれども、おかげが頂けない。その原因をいろいろ思うてみる、調べてみるとです。一心が足りない。修業が足りないと言う様な事も、本当にこの位の一心ではおかげ頂く筈はないなあと、この位の修業ではおかげ頂く筈はないなあと言った様な事を、まあ感じるのですけれども。私は一番お互いが分からなければならない事はですね、信心さして頂いて教えを頂く。いわゆる本当の事というか真の道というか。
 分かりきったこと、信心さして頂いておって、成程信心を頂いてないまでは、それは分かってなかったんだけれども、信心さして頂くようになったら、こういうことではおかげは受けられんと。こういう考え方ではおかげは受けないということが、分かっておりながら、それを行じない。分かりきったことを、分かりきったようにしないところに、おかげが受けられないという原因が、私、一番大きいように思う。分かりきったことを、分りきったこととせずにおかげを頂こうとしておるということなんです。
 どうでもひとつ、お互いがおかげを頂きたいのでございますから、そこんところが、矢張り一心をもって、一生懸命の神様へ打ち向う心というものを作らして頂くということと同時に、神様が、どうぞおかげを頂かして下さいというて願う。そんなら、こういうような心の状態にならなきゃいけないぞと、こういうようなあり方にならなきゃいけないぞと、教えて下さることをです、私共が行じていない。それがその、私共の、その思いというものが、ちょっと変えられたらいいのですよね。
 例えて云うならば、女の方がお料理を作ります。その例えばお料理ひとつ作らして頂くでも、それを頂く人達が本当にこの喜んで下さるために、例えば家族の中に若い者も居りゃ、年寄も居る。どうぞ若い者も年寄も喜びます喜んで、美味しい美味しいと云うて食べてくれるようなお料理を作りたいという願いをもって、お料理をするとそれだけなんだ。お商売をさして頂くでも、どうぞお客さんが喜んで頂くような商売をさして下さい。それにもかかわらずその自分を中心にした、例えば料理の作り方。
 自分が甘口じゃから甘口に作る、自分は辛口じゃから辛口に作る、うちのお婆ちゃんはこういうような味わいが好きだから、うちの主人はこういうような、本当に自分以外のところに焦点を置く。そこんところに私はおかげの受けられない元があるのじゃないかと、こう思うのです。いやそれが一番おかげの受けられない大きな原因のように思うです。一生懸命参ってきなさる。一生懸命修業もしござるのに、どうしておかげが受けられんじゃろうかと、こう私は思うような人が沢山ある。
 いつもその人が、ほんなら、しておること、云うておることは、矢張り自分を中心であるからなんです。そんならお互いがです、そのまぁ我情我欲をはなれてと、こう仰るから、我情我欲をはなれてしまうといったようなことは、まぁなかなか、難しいことではありましてもです。その我情が、我欲がです、自分以外のものに焦点がおいてある。いわゆる、小我を捨てて大我に生き抜けとこう仰る。せっかく、慾を持つなら、大きな慾のために、そう教えにゃいかん。自分一人が助かることの為ではなくてですね。
 例えば、ほんなら、今日、分かりやすくその、お料理のことを申しましたが、又商売のことを申しましたが。お客さんが喜んで下さるような商売を心がけたらです。いわゆる、お客様本位のおかげを頂いたらです。その店は、繁盛しない筈はないです。口だけではなくてです、本当にお商売をして、損せろというのじゃないです。お客さん本位にならせて頂いたら、その商売は繁盛しない筈は絶対に無い。それを自分本位にするところに、私はおかげを受けられない元があるとこう思う。
 それが段々おかげを頂いてまいりますとです、信心が、いわゆる、神様本位ということになる。信心本位ということになる。けれども、お互いが修業をしておる、一心に参っておるけれども、神様本位じゃない、自分本位なのです。氏子が神様まかせなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと仰る。私共が、お願いをして、神様をです、自分の小さい思いの中に入れてしまうといったような、考え方の信心からです。こちらが神様任せになる、こちらが神様本位の生活さしてもらう。
 そこには、神様が、私共任せ、私共本位になって下さるような、おかげが受けられるんだと、はっきり教えて下さるのだけれども。矢張り、自分本位から一歩も出てない生活をしておる。そこで私はそのまあ初心の方達によく申します。自分が成功したいと思う、自分が儲けだしたいと思う。ですから、その自分が儲けだしたい、そのことは変わらなくてもです、私が儲けだすことが、私が立身出世をすることがです。
 いうならば、もう親が喜んでくれますから、親が喜びますから、というようなところに、私は焦点をおきなさい、と私は申します。おかげ頂くです。唯、自分一人の立身出世を願うだけじゃいかん。私の立身出世が、親の喜びにつながっておる。商売繁盛が、いわゆる社会奉仕につながっておる。私の助かりが沢山の人の助かりにつながっておる。そういう私はおかげを頂かしてもらう時にです、天地が自由になるようなおかげが頂かれるのじゃないかと思います。
 夕べはあの土居の共励会でございましたから、皆さんあちらへ、正義さん先生方を迎えに来てくれましてから、そこで話してることです。もうこれは何時もの事ですけれども、本当に勿体ない。ご承知のように土木の仕事をしておりますから、矢張り天候というのが一番左右する訳ですね。それでもういうなら損とか得とか決まってしまうのです。ところがです例えば昨日もそうで御座いました。自動車で廻っとりますから私は場所はちょっと忘れましたけれども、ま例えて云うならば善導寺で仕事をしておる。
 ところが吉井の方へ参りましたら、吉井は雨が降っておる。久留米の方にまいりましたら、久留米はそのお湿りがあっておる。ところが、私が仕事をしておる善導寺だけはお湿りがあっていない、というようなおかげをです、いつも体験しておる。どうぞ、私がこういう土木の仕事をしておりますから、天候のお繰り合せを下さいというだけでは、正義さんが云うように、そういうおかげは頂けんと思うです。
 今日私は、どこどこの仕事をしますから、どうぞどこどこがお元気のおくり合わせを頂きますように、といったようなことを願うただけでは。ところが、例えば、ほんなら、正義さんのいわば現在の仕事というものがです、そりゃもう久富建設なら久富建設というだけじゃないです。その仕事がです、必ず椛目につながっておるのです。御造営につながっておるのです。そこに私は、成程天地が自由になると仰る、その神様の働きを、目のあたりに見せて頂き、実感することが出来る。
 はあこういう生き方があるんだなあと、こういう生き方さえ体得していけばいいんだと。椛目が大きくなるそれに、例え久富建設も一緒に大きくなっていくと言う様な道があるんだと。どうぞ久富建設に大きなおかげ頂かして下さい、ということだけでは私はおかげは受けられないとこう思う。焦点が違うでしょう。お料理ひとつ作らして頂くでもいうなら、皆んなが喜んで味おうてくれるようなお料理を作らして下さい。どうぞ私に成功さして下さい、私にいわば立身出世をさして下さいというその願いでもです。
 私の立身出世をです親が喜びます、もう親孝行したい親に喜んでもらいたい、というその一心が、いわば、神様に向っての一心になり、一生懸命の修業になるという時に、これがおかげにならん筈はないんです。お互いが、一心になっておるようである。一生懸命修業もしとるようである。お参りも一生懸命出来ておるのだけれども、何故おかげを受けられんのだろう。真の道におりながら真の道を踏まぬことと仰るが、真の道を踏みよらん。分かり切ったことを、分かり切ったように努めよらん。
 どうぞ皆さん、私共の生き方の中に、それこそ、分かり切ったことを、分かり切ったことにせずに、おかげを頂かずに、どうしておかげを受けられんだろうか、といったようなことではない。そこんところに、いよいよ、焦点を置いてですね。だからこそ、信心さして頂きよればです。はあ成程、あっちの商売は違うと思いよったら、成程、金光様の信心をしござるげなから、というような、お商売でなからなきゃいかんです。これはもう全ての上にそうです。お野菜ひとつ作るでもそうです。ただ立派に作りたいと、というのではなくてです。
 本当に沢山の人に喜んでもらえるようなお野菜。それを本当に、例えば、大きくもっていくならばです、本当に神様に喜んで頂けるようなお野菜、同じ自分の仕事でもです、ただ自分の周囲の、例えば、私、先程申しました、親が喜んでくれますからといったような考え方が、もっともっと高度なものになってくる時にです。神様に喜んで頂けれるような、私にならして下さい、といったよう願い、焦点が変わってくる。そういう私は願いですから。矢張りその、欲は欲です。けれども、我は我ですけれどもです。
 それは純粋な、高度な、いわゆる神様に喜んで頂けるような、欲であったり、我であるんだと、私は思うんです。こうしたいという願いですから、やっぱり、我は我でしょう。けれども、その内容が違う。おかげの受けられない原因にです、一心が足りんとか、修業が足りないということやらに、気が付いたら、もっと、一心を打ち向けてこなきゃならんと同時にです。教えを頂いて分かり切ったことをです、分かり切ったようにしていないことがです、一番おかげの受けられない原因じゃないかと私ゃ思うですね。          どうぞ。